「おかえりなさいませ、デボラ様」
「ええ、帰ったわ」
若いメイドが迎え入れる。リュカ様もどうぞ、と言うので言われるがままついていく。ふかふかの赤いじゅうたんに沈み込む靴の感覚に、リュカは未だに慣れていない。
隣を歩くデボラになんとなく違和感を覚えた。どうしてだろう、どこか雰囲気が変わった気がする。
「……何見てるのよ」
「いや、別に」
気のせいだろうな。そう思ってリュカがそのまま歩こうとすると、突然デボラが立ち止まった。
「……ちょっと、待ちなさいよ」
「何ですか?」
屋敷内なのでさすがに笑顔を取り繕って振り返る。
「靴のリボンがほどけたわ。結びなさい」
「……はい?」
何を言い出すんだこの女は、という言葉をぎりぎりで喉に止める。この人、さっきまでここまで我儘だったか?
リュカが唖然としていると、先程のメイドがデボラを諫める。
「デボラ様、そのようなことは私めが」
「いいから早く!」
なんとなく焦っているような気配を感じてリュカがしゃがみ込むと、デボラのふくらはぎの見えにくい部分から血がにじんでいるのが見えた。しかもかなり大きな傷だ。
「早くしなさいってば」
「……はいはい」
なるほど機転がきくじゃないか。リボンを結びながらリュカはその傷にホイミをかける。よく見ればリボンには靴で踏んだような跡がある。……わざとほどいたのかもしれない。
「申し訳ありません、リュカ様」
「いえいえ、いいんですよ」
メイドの謝罪を笑顔でかわす。この様子だとデボラの怪我には気づいていなさそうだったので、リュカは安心して応接間への扉を開ける。
応接間にはルドマンとその妻、加えてフローラまでそろっていた。あらためてフローラを見て、正反対の姉妹という印象を拭えない。
「デボラ、こんなに遅くまでどこに行っていたんだ!」
「どこだっていいでしょう? もう子供でもないんだから」
ふい、とルドマンから顔をそむけるデボラ。その言い方は明らかに子供だけどな、と思うがここでもリュカは口には出さない。
「リュカくん、娘がすまなかったね。迷惑をかけなかったかい?」
「いえいえこちらこそ、仲間が娘さんに迷惑を……」
どす、と二度目の肘鉄の衝撃がリュカの体を走り、リュカの言葉を遮ってデボラが割って入った。
「散歩してたのよ。その途中で会ったから送ってもらっただけ。迷惑なんて掛けてないわ。ねぇ?」
初めて見るデボラのにこやかな笑顔の奥から、「余計なこと言うんじゃないわよ」という気配が感じられて、リュカも痛みを抑えて笑顔で押し黙る。
……もしかして、庇ってくれているんだろうか。
下手にルドマンに嫌われてしまえば、炎のリングを取ってきたとはいえ婚約が破棄される可能性もある。娘のデボラに何かされたとなれば、当然ルドマンもリュカを不審に思うだろう。フローラとの結婚などもってのほかだ。
「……なににやにやしてんのよ」
「いやいや、お気になさらず」
一応俺のこと認めてくれたのかな。引きつり笑いのデボラを横目で眺めながら、なんとなくリュカは柔らかい気持ちになる。
……まぁ、ただ単に説教から逃れるための口実にされたという可能性も十分あるのだが。
もういい部屋に戻るわ、と階段へと向かうデボラ。その首にまた新たな傷を見つけて、リュカの頬に、つう、と嫌な汗が垂れる。なんであんなとこにまで傷つくってんだあの人は!!
「……ちょっと待って下さい」
「何よ」
リュカは魔力を練りながらデボラに駆け寄り、急いで首筋にホイミをかける。回復されていることに気づいて少し気まずい顔をしたデボラの耳元に、小さく囁く。
(あんたどんだけやんちゃしたんだよ)
(やんちゃっ……って、だからあんたに関係ないでしょ!?)
(だから大有りだっつってんだろうが、お義姉さん)
(うっさいわね、もう!)
食事でもどうかね、というルドマンの誘いを丁重にお断りして屋敷を出ようとすると、玄関まで見送ると言ってフローラがついてきた。
「そこまでお気遣いしていただかなくても……」
「いえいえ、姉がお世話になりましたから」
リュカの仮面の笑顔にもフローラはしっかり応じて、常に優雅な微笑みを絶やさない。白い百合がそのまま人間になったら大体こんな感じではなかろうか。
「……あの、姉とはどういったお話を?」
フローラがおずおずと控えめに質問をする。
ああもう態度からして正反対だな、ホントにちゃんとあの姉と血ぃ繋がってるのかフローラさんよ。そんなことは口が裂けても言えないので、あたりさわりのない言葉を返す。
「昔の思い出話やあなたの話を、いろいろと。妹思いのお姉さんですね」
「ふふ、そうなんです。皆さん全然気が付かないけれど、姉さんはとっても優しい人なんですよ」
そりゃあんたに対してだけ優しいんだから気付くはずないさ、だなんて純白の笑顔に墨を塗りたくるようなことも、口が裂けても言えない。あぁ、息が詰まるというのはこういうことを言うのか。
早く帰りたい、という表情をこらえて笑顔を固めていると、フローラの声色が少しだけ変わった。
「リュカさん……あの、本当に、私と結婚するおつもりなのですか?」
「……はい、そう考えています」
「では、次は水のリングをお探しに?」
「ええ、明日にでも出発するつもりですよ」
「……そんな危険なこと、私なんかのためにしなくたっていいんですよ?」
「いえいえ、十分にそれだけの価値はありますよ」
「……そうじゃなくて……」
言いよどむフローラの言葉の続きを待っていると、フローラは首を振ってリュカに明るい笑顔を見せた。まるでなにかをごまかすように。
「……いえ、なんでもありませんわ。あんまり無茶はしないでくださいね」
「御心配には及びません。必ず無事に帰ってきますから」
天空の盾のために、だなんて、口が裂けても言えない。
まぁ、目的はどうあれ結果的に無事に帰ってこれたわけだが。
山奥の村で奇跡の再会を果たしたビアンカが、サラボナへ向かう船のテラスでうっとりしながら水のリングを眺めている。
「綺麗ね……なんだか魅入っちゃうわー」
「言っとくけど、ビアンカにあげるわけじゃないんだからね。それ」
わかってると彼女は笑う。屈託のない笑みはいつまでたっても変わっていない。
滝の轟音をくぐった洞窟のさらに奥深く、水のリングは透き通る光の中でおごそかに佇んでいた。水門の鍵を開くかわりに少し旅に協力させてほしい、と言ってついてきた好奇心旺盛のビアンカは、久々の冒険が相当楽しかったらしく思い出し笑いが止まらないようだ。口元が緩んでいる。
「フローラさんも幸せよね。旦那様が命がけで取ってきた指輪が結婚指輪になるなんて、すごいロマンチック」
「ビアンカも早くそういう人探しなよ?」
「もー余計なお世話っ」
結婚なんて自分には関係ないと思っていたのに、これが他愛もない会話になったのだから俺も大人になったんだなぁ、と少しだけ実感する。
お化け退治に行ったあの時とは違い、自分と同じように大人になったビアンカは見違えるほど綺麗になっていた。ただ中身がお転婆なのは相変わらずのようで、水のリングを取りに行くのを手伝うと言い出した時には、あぁこの人はビアンカだという確証を得たものだが。
「炎のリングもきっと綺麗なんでしょうね。ホントに見せてもらえるの?」
「ルドマンさんに渡したって言っても、取ってきたのは俺だからね。頼めば見せてくれると思う」
「ふふふ、楽しみ♪」
「……欲しいとか言いだすんじゃないだろうね?」
「言わないわよ、もう子供じゃないんだから」
そのふくれっ面は十分子供だろうに、なんて言ったら頬がはちきれそうだったので、リュカは言葉の代わりに苦笑いを返した。
ごろごろとじゃれてきたゲレゲレの喉をなでながら、ビアンカは興味津々な様子でリュカの顔を覗き込んだ。
「ね、ね、フローラさんってどんなひと?」
「可愛い子だったよ。青い長髪が綺麗な……」
「見た目は知ってるわよ、有名だもの。そうじゃなくて、性格とか……あるでしょ? 結婚しようと思うくらいなんだから、こう、なんかガツンとくるような何かが」
「……んー、そーだねー」
そんなもん俺が一番知りたい。
固まった笑顔のままでリュカは曖昧に言葉を濁す。性格っつったって……話したのはこの前ルドマン邸を出る一瞬だけ、“なんかガツンとくるような何か”が出来るほど親しい仲じゃない。むしろ姉のデボラさんとの方が親しい自信がある。いや、あれは親しいとは言わないか。
ビアンカは、どう言い訳しようか悩んでいるリュカをずっと眺めている。そして少しだけ微笑んだ。
「まーいいわ。きっと言葉に表せないほどいい人なのね」
「……ん。そんな感じ」
すりよってきたゲレゲレを抱きしめて顔をうずめ、おまえは相変わらずいい匂いだね、なんて言って無理やり会話の軌道を逸らす。しかしビアンカはその軌道をきれいに修正した。
「じゃあお姉さんの方は? デボラさんって言ったっけ、こっちの村には凄い噂が届いてるけど」
言いたい放題やりたい放題、お金遣いの荒さは天下一品、言葉遣いの悪さも天下一品、云々。普通の人が聞いたら誰でも婿養子になんてなりたくないと逃げ出しそうな言葉がビアンカの口から出てくる。リュカは憐みの意味で苦笑いを浮かべる。
「……さすがデボラ様……」
「ん?」
「いや、何でもない」
かわいそうに、あの人の悪口はサラボナだけに留まらないのか。せめて弁解しておくべきだろうか、と思いながらリュカはついこの間のデボラとの会話を思い出す。
「少し話したけど、そういう噂と違って悪い人じゃなかったよ。それにフローラさんのこと大好きみたいだった」
あの時はまるで、フローラの幸せはあたしの幸せなのよ、なんて言いだしそうなくらい婿候補の俺の詮索に必死だったな。あの年頃なら妹のよりも自分の相手を探す方が先決じゃないのか。
ふと、リュカは屋敷で感じた違和感の正体に気付く。
そうか、あの人は俺と似てるんだ。父の望みを一番に優先して生きる自分と同じように、あの人は妹の幸せを一番に優先して生きているように見えた。
天空の勇者のために感情を抜きにして行動してる自分と同じように。
もしかしたら、彼女も。
「……リュカ?」
「……え、何?」
「どうしたの、急にぼーっとして」
心配そうにリュカを見つめるビアンカに、何でもないって、と笑顔で海に視線を逃がす。
船酔いしなくてよかったなぁ、なんて船べりに顎を載せ波打つ水面を眺めとりとめもないことを考えていると、ゲレゲレを挟んで並んでいるビアンカが小さく呟いた。
「相変わらずよね、リュカは」
「ん、何か言った?」
見上げたビアンカの顔は少しだけ悲しげで、なぜかリュカはその顔に見覚えがあった。幼い頃にも一度、こんな顔をしたビアンカをみたような気がする。
「ううん、何でもない」
そう言って彼女は、リュカを真似てゲレゲレにもたれかかり顔をうずめる。太陽のにおいがするね、なんて独り言のように呟きながら。
ビアンカの皮肉めいた笑いとため息にも気付かないまま、リュカは彼方の水平線を見ていた。