Break the Phantom【3】

「へい、お待ちィ!」
 テーブルの上に威勢よく差し出したのは、ほかほかと湯気の立ちのぼる高千穂真那特製ふっくらだし巻き玉子。醤油のかかった大根おろしも、もちろん抜かりなく盛り付けてある。
「ほー、意外な特技。美味そうにできてるじゃん」
「あとは大根とレタスのサラダと、エノキとアスパラの肉巻きね。あとジャガイモつぶしてチーズ焼きにして、ウィンナーはひたすらタコ型にして炒めてきた。こんだけ作っときゃ当分ツマミには困らんっしょ」
 エプロンを外しながらつらつらと説明してやると、咲樹がほう、と感嘆のため息を漏らす。
「すごいわ真那、レストランのコックさんみたい!」
「ふふん。流れ板高千穂と呼んでくれてもいーわよ」
「わかる人いんのかよ、それ」
 苦笑いの御門も、何だかんだ並んだ手料理に感心しているようだった。いわゆるイイトコの坊ちゃん嬢ちゃんである御門と咲樹には、自分の手で食事を用意する、という概念すら無かったらしい。まったくもって羨ましい、このハコイリ共め。
 ちょっくら箸借りてくるわ、と言い残して真那が厨房の奥へ向かうと、作ったわけでもないのに何故か自慢げな小都子の声が聞こえてくる。
「どーよっ、うちの嫁は!」
「話には聞いていたけれど、こんなにお料理上手とは思わなかったわ」
「でしょー! 毎日おいしいご飯が食べれてあたしは幸せだよー」
「……小都子、貴女はご飯作らないの?」
「うんっ! 真那がいつも作ってくれるの!」
 てめーが作らせてる、の間違いだろーが。声に出さずに突っ込みながら、真那は2段目の引き出しから人数分の箸を取り出した。コップは入口の給水機にあったっけ、と記憶を探りながら、皆が揃うテーブルへ向かう。
「あはは、確かにこれだけパパッと作れるならいいお嫁さんになりそうだよねぇ、高千穂さん」
「いやいや嫁っつったって、あの末期厨二病患者に貰い手なんか……」

―――どすっ。

「ぎゃっ!!」
 気配を殺し、背後から椋岡の脳天に箸を突き刺す。
「おいコラ椋岡ァ、そんなに食材になりたかったんなら、もっと、早く、言えっ、つーのっ!!」
「待ってごめんすいませんでした刺さないで!! つむじやめてつむじ!!」
 頭頂部に降る箸攻撃を必死で避ける椋岡。一言余計だっつの。
 ちなみに、真那達が楽な恰好でくつろいでいるのは寮の男女共用スペースである食堂の一角。寮母さんに寮生以外を泊める事情を説明しがてらお願いしたら、快くスペースを貸してもらえた。
 雨に濡れた制服を乾かすため、咲樹は小都子から、御門は椋岡から部屋着を借りて着替えている。薄手のパーカーにハーフパンツという御門のラフな格好もさることながら、咲樹のうさぎパーカー姿はかなり貴重である。細身スレンダーな体形に、普段のカッチリした制服姿とのギャップも相まって中々に可愛らしい姿である。正直持ち主の梶サンよりよっぽど似合ってるわ、なんつったら怒るんだろうな。
 食堂のアナログ時計は午後7時を指している。お泊り会開始からはや1時間、明日から休みということもあり、どことなく気の抜けた空気が漂っている。
 だし巻き玉子を満足げに頬張る御門が、興味なさげに問いかけた。
「で、何。高千穂と梶はそういうアレなの」
「うん? どうだと思う?」
 何で思わせぶりな返事すんだよ梶サン。
「なあに隆芳、“そういうアレ”って」
「……言っとくけど“梶真那”になる予定はないわよ、ワタシは」
 真那はため息交じりに否定する。
「ええー? あたし卒業してからも真那のご飯食べたいのにぃ」
「金取るわよ」
「ぶー」
 小都子を一睨みすると、頬をぷっくり膨らませてブーイングされた。食費折半で技術料取らないだけ破格の対応だ、贅沢言うなっての。
 くそぅ。この話題、下手に突かれるとこちらがケチ扱いされかねない。真那はサラダに青じそドレッシングを掛けながら話をそらしにかかる。
「そういうアレの話なら、御門の方こそどうなのよ」
「ねえ真那なあに、“そういうアレ”って」
「どっ、ど、どうなのよって何がだよ……」
 おおっと。露骨な動揺、わかりやすくてありがたい。咲樹の疑問を無視して会話は進む。
「何がじゃないでしょ、どっちとそういうアレなのか聞いてんじゃん」
「いやいやっ、どっちって、誰と誰の話だよ」
 御門の目が泳ぎまくっている。バカが付くほどの正直者は、これだからカモりやすい。
「無駄にしらばっくれるわね……まさか、そういうアレなのはあんた以外の二人の方!?」
「なわけあるか! 許すわけねーだろそんなの!!」
 冗談でかまかけただけなのに全力で否定。……思いのほか狭量よね。
「や、実際そーだったとして、あんたが許さなかったからって何がどうなるわけでもないでしょうよ……」
「……まあ、そーなんだけどさ。……なあ、ホントにそうだったらどうしよう」
「知るかよ……目の前の本人に聞いたらどうなの」
「聞けねーだろそんなデリケートな話題……つうか高千穂、おまえ自分がイジられんの嫌だからって思いっ切りこっち振りやがって」
「そっちが吹っ掛けてきたんじゃん、自業自得だっつの」
「……なあ、もっと楽しい話しねえ?」
「ふふん。敗北宣言と取って差支えなさそーね?」
「……もう好きにしてくれ……」
「ねえ小都子、あの二人は何の話をしているの? 代名詞だらけでよくわからないわ」
「だいじょぶだいじょぶ。サッコがわかんなくても問題ないよ」
 イジられ役同士の醜い立場のなすりつけあいを指差す咲樹を、小都子がなあなあにごまかしている。この状況の咲樹の場合、理解できてしまった方が問題ありだ。
 ジャガイモのチーズ焼きを齧る椋岡が、訳知り顔で楽しそうに呟く。
「いやーお泊り会の定番だよなー、恋バナ」
「恋バナ? どこからが恋バナだったの?」
「夕飯始まってからずっとそうだったぜ?」
「……私には何が何だかさっぱりだわ」
「つってもズバリ当事者なんだけどねぇ、近衛さん」
 エノキとアスパラの肉巻きに箸を伸ばしながら、結城がケラケラ笑っている。説明が面倒になったらしい小都子は、腑に落ちない表情で首を傾げる咲樹の口にタコさんウインナーを突っ込んでいた。
 ちなみに、もうひとりの当事者であり、いつもなら咲樹への解説役を務めている響は、この場にいない。今頃校舎棟の研究室で、中村と二人きりのはずだ。

 

 

「頼む」
「……イヤ、です」
 首を振る響の逃げ道を塞ぐように、壁に肘を付く中村。必死なその姿はまるで、神に許しを請う罪人だ。
「そんなこと言わないでくれ、キミがいなきゃダメなんだ」
「……でも」
「離したくない。今夜だけでいい……そばに、いてくれないか」
「龍先生……」
 すがりつく中村の熱っぽい視線から逃れようと、響が強引に顔をそむける。分厚いメガネの向こう、その瞳の奥に吸い込まれるのを恐れているかのように。
 息の詰まりそうな3秒間。震える薄桃の唇から、微かに諦めの吐息が漏れる。
「……だから、」
 響が頭を抱えて、今度こそ大きくため息をついた。
「だから昨晩のレアドロ率UPイベは見送れって言ったじゃないですかっ!」
「しょーがねーじゃん確率3%が30%だぜ!? ゲーマーとしてこんな神イベ見逃せないだろ!」
「ゲーマー以前に社会人として締切は守らなきゃダメでしょうがっ!」
「ああんそんな正論言わないで! データの提出期限まであと6時間切ってるんだ、頼むよ今夜だけ! 一生のお願い!」
「もーっ、それ何度目の“一生のお願い”ですかーっ!」
 怒りと苛立ちを乗せた響の咆哮。唐突に始まったメロドラマ展開を打ち砕くには、それだけで十分だった。
 ひたすら拝み倒す中村に、呆れながら説教する響。友人の乙女の危機だということも忘れて手に汗握り見入っていた真那は、その光景を見てホッと胸をなでおろした。
「あービックリした……昼ドラじゃねーんだからさ……」
「な、何事かと思ったよ……」
 隣で冷や汗を拭う小都子も同じ感想だったようだ。ネトゲの話が出てこなければ、そのまま濡れ場にでも入りそうな勢いのシリアス具合に見えた。
 しかし一番取り乱しそうな咲樹は、意外にもどっしり構えて冷静だ。
「相変わらず中村先生とは仲がいいのね。響が楽しそうでよかった」
「いやいやその判断はさすがに節穴すぎんだろ近衛サン……」
「でも、響はずいぶん活き活きしているわ」
 咲樹がなんとなく嬉しそうに、言い争う響と中村を指差した。研究を手伝う手伝わないの話は、まだ終わっていないようだ。
「絶っ対、イヤです! 学校でお泊り会なんて滅多に出来ないのに!」
「そこを何とか! お泊りなら今夜俺とすればいいじゃない!」
「はっ倒しますよセクハラ講師っ! 冗談かませる余裕があるなら私の手伝い必要ないじゃないっ!」
「いやいや冗談抜きで! このままだとマジで完徹コースなんだって!」
「夏休み初日に研究室で徹夜なんて尚のことイヤぁーっ!」
 日頃の穏やかさはどこへやら、次々明らかになる悪条件に響はそろそろ敬語も敬意も見失いそうだ。
 ……あれが“楽しそう”ねえ。言われてみれば、いつも落ち着いてる渡辺サンがあからさまに感情的になってるのって、対中村先生くらいだな。
 格闘が始まって数分。頑として首を縦に振らない響に、ついに中村はしびれを切らしたらしい。
「くっ……仕方ない。出来ればこの手は使いたくなかったんだがな」
「フンだ、何言われたって今夜だけは手伝わ……なっ……!」
 必死に抵抗していた響の勢いが突然そがれる。
「“コイツ”を前に、いつまでもそんな態度がとれるかい?」
 絶句した彼女の視線の先は、ポケットから取り出された中村の左手。
「ひ、卑怯です、先生っ……!」
「所詮キミもただの女子高生……“コイツ”が欲しくてたまらない、そうだろう?」
 いや。正確には、中村の左手に燦然と輝く魅惑の紙切れ。一万円札である。
「う……だ、だめ、この程度で揺らぐわけには……」
「思った通り、強情な子だ……だが、これならどうだい」
 響の眼前に差し出された一万円札。中村が指をずらすと、微かに紙同士が擦れる音。なんと、紙幣は一枚だけではなかったのだ。
 ほのかに紅潮する響の頬を、2枚の紙幣が優しく撫ぜる。
「ぐぅっ……!?」
「ほうら、体は正直だ……素直になりな、いい子だから」
「や、すごいっ……こんなにおっきいの、初めてっ……!」
 金額が、である。
 瞳に浮かぶ¥マークを隠しきれない響が、沸き立つ欲望に震える手を紙幣に伸ばす。すると中村は、突然ひょいと手を引っ込めた。
「あ……そ、そんな……」
「ふふ。まだキミに“コイツ”をあげるわけにはいかないなぁ」
 不敵に微笑む中村は、恍惚に頬を染めた渡辺の顎を軽く持ち上げる。
「焦らしちゃイヤです、先生……」
「キミには、口にすべきことがある……わかってるだろう、響ちゃん?」
「う……」
 もどかしそうに身をよじる響。“抗う”などという選択肢は、とうの昔に彼女の頭から抜け落ちていた。
 そして響の口からは、ふり絞るようなか細い声。
「て、手伝い、ます……」
「ふうん、それだけかい?」
「……言わなきゃ、ダメですか?」
「もちろん。利口なキミのことだ、さぞ上手におねだりしてくれるんだろうね?」
 手伝いの報酬を、である。
「……イジワル」
 切なげに潤む瞳は、しかし中村の左手を捉えて離さない。こぼれそうな涎をじゅるりと啜る。響の心は、ひらりと靡く2枚の紙切れの魅力に完全に囚われていた。
「……く、ください……」
 ポケットマネーを、である。
「もう一声」
「っ……せ、先生のが、欲しいの……!」

―――スパーーンッ!!!

「ふぎゃっ!!?」
 小気味よい打撃音が廊下に響く。後頭部を抑える中村の背後には、スリッパを手にした御門の姿。
「い・つ・ま・で・やってんだっ!!」
「くぅー……痛いなぁ、何するんだい」
「こっちのセリフだ!! うちの子に妙な事吹き込まんでくださいっ!!」
「キミ保護者かい……」
「保護者じゃなくたって止めますっ!! 響ちゃん悪ノリし過ぎ!! 何言わされてんだよ!!」
「いひゃいいひゃい、ふぉめんらはいー!!」
 鬼のような形相の御門が、中村から強引に引きはがした響の頬を思いっきりつねる。たかだか2万でそこまで墜ちるようでは、弁護の余地はない。日頃優等生面をしている響の下衆な一面に、真那はドン引きである。
「隆芳ダメよ、離してあげて」
 年相応の反応を見せる真那をよそに、隆芳と響を引き剥がす咲樹。いやいやちょっと寛容すぎるんじゃないの、姫様。
「女の子に乱暴を働くものではないわ」
「ち、違うっ! 俺はっ、えー、その、乱暴されそうなのを止めようとだな!」
「乱暴なのは貴方の方でしょう。響が痛がってるじゃない」
「いやいやっ、そういう乱暴じゃなく!!」
「ウワーン、サッコチャン、イタカッタヨー」
「ちっくしょう卑怯だぞ響ちゃんっ!!」
 あ、ちがうわ。何で御門が怒ってんのかわかってねーな、ありゃ。
 御門から解放された響は、つねられて少し赤くなった頬をさすりながら、信じられない言葉を口走った。
「じゃあ、そういうわけだから。ちょっと龍先生のお手伝いしてくるね」
「……は!?」
「急なことでごめんね?早めにキリつけて帰ってくるから、お泊り会は先に始めててくれる?」
「待て待て待て待て、マジで言ってんの!?」
「え。そりゃあ、マジだけど……」
 一緒に焦って響を引き留めるのは、先程まで真那と同じくドン引きしていた小都子である。
「なんで!? 今の会話の中にビッキーが安全だって保障どこにもなかったじゃん!?」
「あはは、平気平気」
 こちらの心配など気にも留めず、響は顔色一つ変えずに慣れた様子でへらへら笑っている。
「龍先生が現ナマで釣ってくるのは、本気で切羽詰まってるときだけだから。あんな風にふざけてるけど、実際頭の中は締め切りでいっぱいだと思うよ」
「はっはっは、さすがだね」
 情けない分析をされているというのに、当の本人である中村は余裕の笑みで響の肩をポンと叩く。
「よくわかってるじゃないか、だてに助手務めてないねぇ」
「半年も経てばわかりますよ、そのくらい」
 そういう察しのいいトコ大好き、ハイハイどーも、などと茶化しながら響と中村は夜の校舎に消えていく。後ろ姿を見送りながら、真那は不安に眉根を寄せる。こちら以上に心配しているに決まっている御門の顔なんて、恐ろしくて見る気にもならない。
 うーん、確かに“楽しそう”ではあるんだが……乙女として大丈夫か渡辺サン……。
 それがお泊り会開始直前、午後6時の話。