ざあざあ、しとしと。ゴロゴロ、ピシャン。
「……夕立にしちゃ長い雨だね」
暗雲に覆われた空を窓越しに見上げながら、渡辺響は不安げに呟いた。1年A組の教室には、蛍光灯の無機質な白が頼りなく灯っている。
昼下がりから降り出した雨は徐々に強さを増して未だに止まず、グラウンドはすでにぬかるみきっている。響の後ろで思いっきり伸びをした幼馴染の御門隆芳も、心配そうに窓の外に目をやった。
「こんな土砂降りで雷まで鳴り出して、俺ら家まで帰れんのかな?」
「どうかな……この雨じゃ傘なしで駅まで行くのは厳しそうだよね」
「止む気配、無いもんなぁ……」
今日は終業式で半日授業。クラス会終了後、クラスメイト達はこれから始まる夏休みにウキウキしながら教室を後にしていった。雨音が支配する午後4時の教室、残った生徒は響と隆芳の二人だけ。
「どーしよっか、このまま帰れなかったら」
「いっそ学校でお泊りでもするか」
「ふふ、こないだもしたばっかりなのに?」
「いいじゃん別に、何度したって」
「もう……甘えん坊さんだなぁ、隆芳くんは」
「ハイハイ、よそ見はおしまいネ!」
パチンと両手を合わせる音が響き、2人は後ろを振り返る。
「御門くん。まだ13ページ目、問4の回答が終わってませんヨー?」
「……いーじゃないスかちょっとくらい! もう3時間以上英語の長文問題読んでて頭パンクしそうなんスよ!」
隆芳の悲痛な叫びを笑顔でかわすのは藤之江学園の英語担当教師、クロード・ウルフスタン。隆芳の机の上に広げられているのは、夏休みの課題として出されている英語のプリントだ。
「ほら頑張って、隆芳くん! せっかくクロード先生が付き合って下さってるんだから、今のうちに進めちゃおう?」
「わかってるよー……わかってるけどー!!」
「それでも、もう半分終わっちゃいましたネ。全部終われば充実したサマーホリデーが過ごせるよ、よかったネ御門くん!」
「……ありがとうございまーす」
疲労に満ち溢れた表情で述べるお礼の言葉に、クロードが苦笑いを返す。その様子を眺めながら、響はすでに解き終わった自分のプリントに目をやった。
響と隆芳が何故、こんな時間まで教室に残っているのか。理由はここにはいないもうひとりの幼馴染、近衛咲樹にある。
『天ヶ音先生に個人練習に付き合っていただけることになったの。先生もお忙しい身だから、終業式の後しか時間がないそうなのだけれど』
『そうなんだ、よかったね! ずっとお願いしてたもんね、サッコちゃん』
『じゃあ、終わるまで教室で待ってる。どれぐらいかかるんだ?』
『午後いっぱい時間を取ってもらえたの。遅くなるから、無理に待ってなくてもいいわ』
『大丈夫だよ、半日なんて宿題やってたらすぐだから! ね、隆芳くん?』
『そうそ………え?』
『ね? もう高校生なんだから最終日に“宿題見せてくれ”なんて泣きついたりしないよね?』
『えっ、いやっ、それとこれとは話が』
『いっそのこと今日からはじめちゃえば後半が楽だよ! さあ、頑張ろうね!』
『毎年最後まで溜め込むからいけないんだわ、情けない』
『……私、サッコちゃんにだって見せる気ないんだからね?』
『……むぅ』
むくれてもダメです、と咲樹に釘を刺したのは昨日の話。持参していた宿題を二人で進めていたところにクロードが通りかかり、わからないならプロに聞けばいいじゃないか、と隆芳がヘルプを求めた結果、今の状況に至ったのだ。
“ミニサイズ鬼軍曹”による指導はまだ続いているらしく、体育館の照明はまだ点きっぱなしである。雨音でよく聞こえないが、ダン、ズバン、ズザー、ドタンバタン、と物騒な音がこちらにも届いてきている。あの調子だと、もうしばらくかかるんだろうな。
響が止まない雨を眺めていると、ゴホンとクロードが咳ばらいをする。
「しかしお二人とも、あまり感心しませんヨ」
「何がですか?」
「何がってキミ達。確かに“仲良きことは美しきかな”とは言うけれどネ、程度というものがあるのではないかな」
「……俺ら、仲良かったらマズいッスか?」
「僕個人としてはロマンチックで素敵だと思うけれどね。ただ、そうも堂々と不純異性交遊を暴露されると“クロード先生”としては止めざるを得ませんネー」
「………」
ふじゅんいせいこうゆう。困ったように発せられた言葉がとっさに脳内で変換できず、響は首を傾げる。
「不純異性交遊……?」
変換が終わってもどうしてその発想に至ったかがわからず、響はもう一度首を傾げた。3人の間に妙な沈黙が走り、再び雨音が教室を支配する。
不吉な雲から、ピシャリと雷が落ちる。稲光が教室を照らしたその刹那、ピン、と響の頭によぎる隆芳との会話。
ざあ、と響の顔から血の気が引く。
「いやいやいやいや!! “お泊り”ってそういうアレじゃないですよ!」
「えっ!? そういうアレって何だよ!?」
「ほほう、そういうアレでないならどういうアレなんでしょうかネ」
「どういうも何も“お泊り”って他に何があるんだよ!?」
「うわあ、ややこしくしないで隆芳くん!!」
本気で理解していないらしい隆芳を強引に押しのけて黙らせ、頭で事情を整理する。どうやって説明したもんかな、この状況。
自らの力で困難を乗り越え克服してこそ、一人前の退魔師に近づくことが出来る。小学校時代、咲樹と隆芳が一緒に稽古をつけてもらっていた時に、咲樹の父親が使った言葉だ。
字面だけ見ると含蓄のある立派な言葉に見えるのだが、実は野菜を食べたがらずゴネる子供たちを何とか説得しようと考えた親心ゆえの口実。だから好き嫌いせず何でも食べなさい、というような言葉が続いたので、実際には大した意味合いはない。
……のだが、早く一人前として認められたい二人には効果てき面。野菜の好き嫌いはもちろんのこと、勉強も運動も含めて自分の苦手に向き合い始め、克服するよう努力し出したのだ。
その中でも幼い二人に共通する苦手。それが“おばけ”であった。
「さいごまで見れたら、もう怖くないってことでいいよな!」
「ええ、そうね! たった一時間だもの、簡単だわ!」
「わああん二人共はなしてよー! 私は見なくてもいいでしょー!?」
隆芳が手にしていたのはホラー映画のレンタルDVD。おばけ嫌いを克服したい咲樹と隆芳、再生機器が渡辺家にしかなかったという理由で強引に巻き込まれた響の3人で鑑賞会を始める。
結果は、すがすがしいほどの惨敗であった。開始5分の時点で咲樹が恐怖にこらえきれずに停止ボタンを押したためだ。
「こ、こ、子供には早かったんだよ! 来年なら大丈夫!!」
「そ、そ、そうよね! きっと平気になってるはずだわ!!」
「た、た、たまにはお泊り会でもしようぜ! 俺は別に怖くないけど!!」
「え、え、ええ、いいと思うわ、別に私だって全っ然怖くないけど!!」
「わああん二人ともそんな怖いんだったら見なきゃいいじゃんかー!!」
涙目で強がる咲樹と震えながら意地を張る隆芳、そして素直に泣きじゃくる響の3人でガタガタしながら布団にもぐる。当時小学2年生、悪夢を見そうな真夏の夜を一人きりでやり過ごすには、あまりに幼かったのだ。
あれからおばけ嫌い克服のためのホラー映画鑑賞会は毎年恒例となり、その後恐怖におびえる3人で一緒の布団で寝るところまでが恒例となっていった。
あれから数年の時が経ち、隆芳が半ばやけくそ気味に手にしていたのはホラー映画のレンタルDVD。
「最後まで見れたら、もう怖くないってことでいいよな……!」
「……ええ、そうね。たった一時間だもの、簡単だわ……!」
「ねえ、このシリーズ一昨年も見たよね……そろそろ私抜きで見たら?」
「「いやだっ!!」」
声をそろえて断られ、響は仕方なく用意された座布団に座る。未だおばけ嫌いを克服できないでいる咲樹と隆芳、そしていい加減ホラー映画の演出傾向に慣れてきている響の3人で鑑賞会を始める。
結果、今年は珍しく惜敗であった。ラスト10分のところまでは頑張れたのだが、隆芳がこらえきれずに停止ボタンを押したのだ。
「む、む、無理、怖いって、こんなん無理だって」
「こ、こ、今回は隆芳の苦手な怨霊系だったものね……仕方がないわ」
「すまん咲樹、あと少しのところだったのに……」
「いいの、持ちこたえていたとはいえ私だってギリギリだったもの。また来年があるわ」
「え、ちょっと、気になる所で止めないでよ。オチだけどうなるか見させて」
「「わああやめてえええ!!」」
リモコンの再生ボタンに手を伸ばしたら全力で止められたので、さすがにやめた。“響ちゃんの鬼、悪魔、冷血漢”だの“響なんてゾンビに食べられてしまえばいい”だの散々文句を言われたが、両腕にしがみついて震えながら言われても怖くない。
両手に幼馴染をくっつけて大広間に向かうと、隆芳の姉弟がすでに寝床の準備を始めてくれていた。毎年“お泊り会”に参加させられているため、布団を敷くのも慣れたものだ。
「いつもすみません、お姉さん」
「いいのいいの、にぎやかで楽しいもん。怖がる弟も可愛いし」
小学校高学年に入った頃から、さすがに3人一緒の布団で寝るのは自重するようになっていた。とはいえ、悪夢を見そうな真夏の夜を一人きりでやり過ごせるようになったわけでもない。そこで解決策として出されたアイデアが、隆芳の姉と弟を引っ張り出して大広間に布団を敷き、5人で雑魚寝をすることで恐怖を和らげる作戦だった。
当時おずおずと頼みに行った際、姉からはニヤつかれ弟からは呆れられたが、どちらも涙目の咲樹に免じて協力してくれた。毎年面倒くさがらずに律儀に協力してくれるあたり、お人よしは御門家の血筋なのだろう。
「私は真ん中で寝るわ。ドアからも窓からも離れたところがいい!」
「うわ、咲樹ずるい! 俺だって真ん中がいい、つーか端っこは嫌だ!」
「隆兄、みっともないからやめなよね……」
面白がる姉と頭を抱える弟をそっちのけで寝場所争いを始める幼馴染達を苦笑いで眺めながら、響はパチリと照明を落とす。真っ暗だと怖いと文句を言われるので、豆電球だけは残したまま。
それが、先週の日曜日の話。
「……なので、そういういかがわしいお泊りじゃありません。至って健全です、弟くんなんてまだ小学生ですよ」
響が一通り説明を終える頃には、隆芳もクロードの勘違いを理解したようだった。流れでホラー嫌いを暴露されて居心地悪そうに頬を掻いているが、誤解を解くためには必要な犠牲である。許せ、隆芳くん。
「ほほう、じゃあ清純異性交遊だったんだネ」
「や、そもそも俺たち付き合ってないッスから」
「Are you serious!? 付き合う前からお泊りかい!?」
「いやいや別にこれから付き合う予定もありませんよ!?」
「What a daring youth……!」(今時の若者は大胆だね…! ※えせ翻訳)
「もう、だから違うって言ってるじゃないですか! いい加減セクハラですよ!」
「Oops! 少し中村先生がうつったかな」
「……英国紳士があんなのに影響されないでください」
オーバーに口をふさいだクロードがいたずらっぽく笑う。純粋な日本マニアの外国人に一体何を教えたんだか。まったく、教育に悪いなぁ。
真夏で日が長いとはいえ、いつまでもしゃべっていると日は落ちてくる。ふと手元に目線を落とすと、腕時計の針は5時を指そうとしていた。おしゃべりしてたら半日なんてすぐ過ぎちゃう、結局隆芳くんの宿題終わらなかったじゃない。
「サッコちゃん、まだ終わらないのかな」
「どーだろな……あ、体育館の電気消えてる」
「おや、本当だ。いつの間に終わったんだろうネ?」
見たところどうやら人影はなさそうだ。もうすぐしごかれきった咲樹が帰ってくる頃合いだろう。
3人で窓越しに体育館をのぞき込んでいると、体育館の反対方向の廊下から何やらにぎやかな話し声が聞こえてくる。
「あーあすごい降られたね……袋の中までびしょびしょだ。高千穂さんの方は?」
「そりゃ多少は濡れたけど。生鮮食品なんだし問題ナッシング、洗っちゃえば平気平気」
隆芳の所属する行動班『流星群』の班員である結城詠親が、顎まで滴ってきた雨のしずくを袖で拭いながら歩いてきた。隣で半額シール付きの豚バラ肉パックを確認するのは、響と咲樹の所属する行動班『Break』の班員である高千穂真那。それぞれ大きく膨らんだビニール袋を重たそうにぶら下げている。近所のスーパーでしこたま食材を買い込んだ帰りのようだ。
「納得いかねえ……普通さあ、相合傘っつったらさあ、男女でやるもんであってさあ……」
「何言ってるのさ、体格考えたら男同士で大きい傘使ったほうが効率いいっしょ?」
『流星群』の残りの一人である椋岡悠と『Break』の残りの一人である梶小都子が、それぞれ雨粒のついた傘を持っている。
「そうだけどさあ、そうなんだけどさあ……」
「あたし達なら二人で小さい傘でも大丈夫だもん。それに借りた身で大きい傘借りられないじゃん?」
どうやら店を出た後に二人で一本ずつの傘で帰ってきたらしい。ぶちぶちと不満を垂らす思春期真っ盛りの椋岡に対して、ド正論をかます小都子。無垢な笑顔が残酷である。
藤之江学園の敷地内には格安で部屋を借りられる学生寮があり、寮生活をする学生は全体の半数を占める。寮に食堂があるため基本的に食費は0円でも済むのだが、味を度外視した栄養重視メニューばかりらしく、備え付けのキッチンで自炊する生徒も少なくないのだとか。
真那と小都子、そして結城と椋岡は、4月当初から学生寮に部屋を借りて生活している。食べ物の好き嫌いが無い小都子が自炊に走るということは、食堂のメニューはそれなりの味なのだろう。
雨に濡れそぼった各々の制服が寒々しい。響は、教室から4人に向かって声をかけた。
「おかえりなさーい。雨の中お買い物なんて、寮生は大変だね」
「……え、ビッキー!? どしたの、何でいるの!?」
「こんな時間まで何してんの? あんた補修受けるような成績じゃないっしょ」
「別に補修で居残りしてるわけじゃないよ、ただ……」
「おい御門、期末の時“赤点回避した”ってGAKTOばりのガッツポーズしてたじゃねえか。ウソつきめ」
「よくないなあチームメイトに隠し事は。どれだけ成績が悪くたって、僕らは君を除け者になんてしないよ?」
「だから補修で居残りじゃねーってば……なんだよこの扱いの差、ちょっとくらい俺のこと信用しろよお前ら」
友人二人になじられて頬を膨らます隆芳を、後ろからクロードが苦笑いで眺めている。何しろ響と結城がつきっきりで指導したにも関わらずギリギリ半分を超えるような状況だったのだ。成績をつける側としても気が気ではなかっただろう。
「こら、お前たち!」
咲樹を待ちながらワイワイとしゃべっていると、突如背後から刺すような叱咤が飛んでくる。
「わああ空子先生っ!!」
「校内は飲食物の持ち込み禁止だ、寮に戻る時は直接玄関に回れと言っているだろう!」
竹刀片手に芋くさいジャージ姿で仁王立ちするのは、藤之江学園の古典担当教師、天ヶ音空子。その後ろには、制服に着替え終わった咲樹がいた。
「待たせてごめんなさい、思ったより白熱してしまって」
「私たちは平気だよ。よかったね、充実した特訓になったみたいで」
申し訳なさそうな咲樹の横で、ハンカチで髪を拭く真那が天ヶ音に向かって不満げに口をとがらせる。
「しょーがないじゃないッスか、言いつけ通り玄関まで歩いてたらワタシらびしょ濡れッスよ。こっち通った方がショートカットなんですって」
「つべこべ言うな。こんなに廊下を濡らして、誰が掃除すると思っているんだ阿呆」
「まあまあ、空子先生。生徒達が風邪を引いたら大変ですヨー」
「……当直の貴方が掃除するんですよ、ウルフスタン先生」
「君たちダメじゃないか! 規則はキチンと守らないといけないヨ!」
「……そんな鮮やかに掌返すんスね、クロード先生」
「Shut up! ……ううむ、どうにも恰好がつかないな」
真那から注がれる白い眼差しから逃げるように、クロードは掃除用具を取りに職員室へ走っていく。その後ろ姿をため息交じりに見送りながら、天ヶ音はポリポリと頭を掻いた。
「……じゃあ、先生達で片付けておくから。お前たちはもう行きなさい」
「え、私達も手伝いますよ?」
「もう暗いし天気も悪いんだから無理に残らなくていい、気を付けて帰るんだぞ。……ああ、ウルフスタン先生! そっちの雑巾は台拭きです! 床はあっちのモップで拭いてください!」
あわただしくクロードに駆け寄っていく天ヶ音の姿を眺めながら、響はクスリと微笑む。
生徒に厳しく叱ることもできるし、やさしく心配するのも忘れないし、同僚の世話までキチンと焼ける。ちょっと怖いけど、いい先生だよね。
「さて。サッコちゃんも戻ってきたし、天ヶ音先生にも心配されたし、帰ろっか?」
「だな……っつっても、まだ雨止んでないんだけどな」
「多少濡れても構わないなら私の傘一本でも帰れるわね。行きましょう」
「いや、傘があってもダメだと思うよ」
結城が深刻そうな顔で携帯電話をのぞきながら呟く。くるりとこちらに向けた液晶画面に表示されていたのは、ニュースサイトの路線情報。
「線路沿いの電柱に雷が落ちたんだって。“今日いっぱいは運行見合わせ”って速報が入ってる」
「きっ、今日いっぱい!?」
響は思わず結城の携帯につかみかかる。確かに、響達が普段使う路線名に×マークが赤く点滅している。
「ほんとだぁ……どーしよう、徒歩で帰れる距離じゃないってのに……」
「なら迎えを頼むしかないかしら。家に連絡を取ってみるわ」
「何言ってるのサッコちゃん、今週末まで退魔師連合の本部会で御両親いないじゃない……」
「あーそうか、うちの親もそんなこと言ってたな……響ちゃんのとこは?」
「お父さんは出張中だし、お母さんは免許もってない……どーする、気合で歩いて帰る?」
「無茶いうな、歩いたら4時間かかんだぜ?雨だけならまだしも、シールド外区域で魔獣が出たら風邪どころじゃ済まねーよ」
「……むぅ。打つ手無し、かしら」
咲樹が眉根を寄せて暗い空を見上げる。雨粒の大きさも雷の激しさも相変わらずで、到底電車が動き出すような天気には見えない。傘一本でしのぐには厳しそうだ。うむむ、どうしたもんかな。
「ねぇねぇっ」
悩む響の肩が、無邪気な声とともに引き寄せられる。
「だったら、うち泊まってけば?」
ぎゅうと首に絡められた腕に抱き寄せられる。上を見上げると、楽しそうな小都子の笑顔。
「ほら、今日からもう夏休みっしょ。授業無いんだもん、明日電車が動くまでくらい寮で面倒見られるよ?」
「え、でも」
「寝間着は貸せるし、寝床も用意できるし……あ、ご飯も用意できるよ! 真那が!」
「自信満々に人任せにしてんじゃねーよ、梶サン」
「御門は男子寮の方でお世話になればいいし。いいよね?」
「もちろん。ただし、めちゃくちゃ狭くても文句言うんじゃねえぞ!」
実家広い奴だと4畳間は辛いぞぉ、とおどけて脅しをかける椋岡に、苦笑いする結城。賛成とも反対とも言わない真那は、すでに袋の中の食材でメニューの構想を練り始めているようだった。何だかんだ、みんな心が広くていい子達だよね。
しかし本当に学校でお泊りをすることになろうとは。嘘から出た実というか、なんというか。
「それじゃ、お言葉に甘えちゃおっか?」
「だな。一晩お世話んなりまーす!」
「本当に助かるわ。一宿一飯のこの恩義、絶対に忘れないから……!」
「あはは、サッコ、気持ちが重いよぉ」
「布団貸すだけだっつーに……大袈裟な奴ね、まったく」
目を輝かせている咲樹に手を取られた小都子と真那が困惑している。無理もない、咲樹にしてみれば幼馴染以外では初めての他所でのお泊りなのだ。
そうと決まれば、早くお泊り会を始めよう。揃って寮に向かおうとした、その時だった。
―――ガシィッ!!!
「きゃあっ!!?」
突然、右手を強引に掴まれる感覚。響は思わず叫び声をあげて振り返る。ぬう、と細長い影が響を覆い隠す。
「え、えっ、な、何……!?」
「……やっと。やっと、見つけた……」
掴まれた右手はそのままに、壁に追い詰められて逃げ場を失う。暗闇の中に、響にとっては見覚えのありすぎる瓶底メガネが鈍く反射する。
「……龍、先生?」
「響ちゃん……」
乱れた髪にかすれた声で響を呼ぶのは、国立研究所からの派遣講師、中村龍之介。普段研究の手伝いで響が接しているユルくて軽い中村とはまるで別人のような、鬼気迫る雰囲気である。
ただならぬ必死さに気圧された響は息を呑み、静かに続く言葉を待つ。
……嫌な予感しか、しないんだけど。