Scarlet Honey【8】

 ポートセルミ港にあった船は、ルドマン一家が普段使う大型客船とは違い乗組員の少ない中型船だった。
 今までは船影におびえて近付いてこなかった魔物たちが襲いかかってくるので、乗組員たちと一緒にデボラたちも戦闘に参加することになっている。
「……もう! 海水で爪がべとべとじゃないのっ!」
「そう言いながら爪でやっつけちゃうのがデボラの凄いところですよね……」
 褒めているのか恐れをなしているのかわからない言い方のピエールが、手袋で自分の剣を拭う。彼の言う“爪”というのは、デボラの指に装着する爪タイプの赤い武器のことである。
 サラボナにいた頃のデボラはルドマン夫妻とよく喧嘩していたため、それなりの回数の家出をしていた。町の中にいてはすぐに見つかって屋敷に連れ戻されてしまうので、必然的に町の外に出ることが多くなり、近くを通りかかる旅人や行商人と話をする機会が多かった。その時に、戦い方のコツを教えてもらったりデボラでも扱えるような武器を譲ってもらっていたので、戦闘に関しては、少なくともサラボナの自警団の輩よりは上のつもりだった。長旅で戦闘経験豊富なリュカ達と並んで戦えているのだから、実際上だったのだろう。
「デボラがこんなに戦えるなんて、初めは思ってませんでした」
「まあ、普通の女ならこんな肉弾戦は無理でしょうね」
「じゃあデボラは、“ふつうのおんな”ではないんですね」
「……どうやら張り倒されたいようね、ピエール?」
「ごめんなさい」
 すぐに謝れるなんてだいぶ分かってきたじゃない、とピエールの頭をなでてやってから、舳先の近くでゲレゲレと一緒にしびれクラゲにとどめをさすリュカに目をやった。
 望み通りにリュカ達とサラボナからポートセルミまで歩いて旅をしたデボラは、リュカ達と様々な話をした。リュカ達の旅の目的も、何故天空の盾を欲しがっていたのかも、リュカの父パパスの話も、パパスの死後にリュカがどんな目にあったのかも。そしてこれから向かうテルパドールには天空の兜があることも、話の中に出てきていた。
「天空の勇者……」
 ずっと、絵本の中のおとぎ話だと思っていた。悪に満ちた世界を救う、みんなの憧れユウシャサマ。
 馬鹿じゃないの、そんな空想を求めて旅だなんて。普段のデボラならばあっさりとそう切り捨てるはずだった。
 それをしなかったのは、リュカの境遇に同情したからではない。
「……どうして、かしらね」
 天空の勇者。
 ただの絵空事だったはずの言葉を今、とても近くに感じている。
「……デボラ?」
「っ、え?」
 ハッと振り返ると、ピエールが心配そうにこちらを見上げていた。
「ボーっとしているみたいですけど、大丈夫ですか。何か悩み事ですか?」
「いええ、何でもないわ。気にしないで頂戴」
「そうですか、よかったです」
 ぽよん、と相棒も安心したように笑っている。まぁ、いつでも笑ってはいるのだが。
「せっかくサラボナを出て悩みがなくなったのに、また悩み事がふえたら大変ですもんね」
 先に戻っていますね、と言って、ピエールは船室に入って行った。甲板には魔物の影も船員の影もなくなっていた。
 ……悩み事、ねぇ。
 小さくため息をついて、デボラは船の手すりにもたれかかった。
 リュカがデボラを選んだ理由は聞いた。しかしデボラ自身はまだ、リュカとの結婚を承諾した理由を話していない。仲間モンスター達は勝手に解釈したり大して気にしていないようだし、リュカ自身も深く立ち入ってこない。敢えて避けているようにも思える。
 立ち入られたくない気持ちなら、きっと彼は誰よりも理解している。あんな過去を背負った彼なら。
(……あれ)
 そこでふと矛盾に気付く。
(だとしたらどうしてあいつ、あたしに色々教えてくれたのかしら)
 あんなに壮絶な過去、誰にも触れられたくなかっただろうに。
 手すりにもたれてそのまま見上げた空は、雲ひとつない澄んだ青空だった。出航後3日間の曇り空とはうってかわって快晴だ。
(……あぁそうか、もうすぐお別れだものね)
 テルパドールに着くまでの航海は、長くかかってあと3日。行きずりの人間になら憂さ晴らしに多少語ることはあるだろうな、とデボラは一人で納得した。
 少し胸が痛んだことには、気付かないふりをする。

 

 

 その日の真夜中。
「あぁ、あんたか。誰かと思った」
 毛皮のショールを羽織ったデボラが外に出ると、見張り台ではなく甲板で海を眺めるリュカがいた。
「眠れないのよ。ちょっと話し相手になりなさい」
「……その上から目線どーにかなんないの、デボラ様?」
「癖なの。……少しくらい勘弁しなさいよ」
 はいはい、と苦笑いをするリュカの隣に座ったデボラは、外の空気の冷たさに少し震える。真夜中の気温をなめすぎていたかもしれない。
 眠れないから、というのはただの口実だ。今日の夜はリュカが見張りをする予定になっていた。二人きりになれるのは、きっと今しかない。
「今日は少し風があるのね」
「ああ。……寒くないか、そんな肩出して」
「寒いに決まってるでしょ」
 じゃあ何か羽織ってこい、と言いかけたリュカの言葉にかぶせるようにデボラは続ける。
「だからもう少し傍に来てちょうだい。……あんまり声を張りたい話でもないから」
 リュカが首をかしげながらもデボラのそばに来る。何だかんだ言って素直に従うあたり可愛いものね、と思いながら、デボラも軽く寄り添う。体温が少しだけ伝わってきた。
「……ねぇ」
「ん?」
「いつだったか、あたしたち姉妹とパパ達の髪色の話したわよね」
「……ああ、染めたって言ってたよな」
「あれ、嘘なの。この黒髪もあの子の青髪も、生まれつき」
 虚を突かれてリュカが黙る。
 行きずりの人間になら、憂さ晴らしに語ってしまうのも悪くない。
「あたしたち、本当の家族じゃないの」
「……まぁ、あんだけ亀裂が走った家族も珍しいが」
「違うわよ。文字通り、そのままの意味。あたしたち家族は、本当の家族じゃないの」
 冗談を言っているわけではない。
「あたしとフローラは孤児だったのよ。2人一緒に、サラボナから遠く離れた孤児院に預けられてたわ」
 真面目な話だとわかったらしいリュカは、もう少しだけデボラの方に寄る。声が届きやすくなってありがたい。
 今でもはっきりと思い出せる。あの頃のことだけは。

 デボラが5つ、フローラはまだ3つだった頃。ルドマンはデボラたちの預けられていた孤児院に資産提供をしていて、時折施設の視察に来ていた。そのとき孤児院で遊んでいたデボラを見つけて、何やら運命的なものを感じたらしい。
「そのときパパ、あたし1人を引き取ろうって考えてたんですって。資産家とはいえ急に子供が二人も増えたら生活が苦しくなるもの、当然と言えば当然よね」
 しかしデボラは違う。フローラを置いて自分だけが幸せな家庭に迎えられるだなんて考えられなかった。幼いデボラにとってフローラはただ一人の家族であり、かけがえのない妹であり、絶対的に守らなければならないものだった。
「……それで、どうしてルドマンさんはフローラさんも引き取ることにしたんだ?」
「そんなの単純よ、あたしが暴れまわっただけのこと」
 “フローラのそばにいられないなら、あんたなんかについて行くもんですか”
 “2人がダメなら、あたしじゃなくてフローラを連れていきなさいよ”
 大体そんな内容の駄々を、朝から晩までずっと泣き叫んでいた覚えがある。
「それでよく引き取る気になったな、ルドマンさん……」
「我ながら散々暴れたもの、正直あたしは連れてってもらえないと思ってたわ」
 それでも構わなかった。
 自分が置いてけぼりにされようと、フローラが幸せになれるならば、それで。
 自分だけが幸せになるくらいなら、その幸せはフローラにあげるんだから。
 そう覚悟を決めて諦めていたのに、デボラの地団駄に根負けしたらしいルドマン夫妻はデボラとフローラの両方を連れて行くことに決めた。デボラに相当強い“運命”を感じたらしい。
「フローラと一緒にいられるなんて思ってなかったから、その時は本当に嬉しかった……」 
 手続きをするルドマン夫妻の傍らで今度はうれし泣きで泣きじゃくってしまい、まだ物心つくかつかないかのフローラに頭をなでなでされる始末だった。
 ずっとフローラの傍にいよう。そう誓ったデボラは、ルドマン夫妻の前では極力“いい子”を務めるようにしていた。この家の子でいる限り、引き離されることも、彼女が不幸になることもないのだから。

 そこまで話して、デボラは一息ついた。思い出しながら話していたので、すこし頭を整理する。
「……ルドマンさんと髪色が違う理由は分かった」
 そもそも顔も中身も全然似てないもんな、とリュカが付け加える。血が繋がっていないのだから似ているわけがない。
「だとしたら、あれだけ険悪な家族になってるのはどうしてだ? “いい子”にしてたんだろう?」
 ……やっぱり、話し始めたら避けられない話題よね。
「“いい子”にしていられる状況じゃなくなったのよ」
 傍にいたい、と誓ったのもつかの間、さっそくデボラ達の間に亀裂が入る。説明を続けるために、デボラは再び記憶の海を探る。
「フローラさんに何かあったのか?」
「フローラの“フ”の字も出てないのによくわかったわね」
「そりゃわかるさ」

 デボラが”いい子”でいられなくなったのは、ルドマンに引き取られてから1年程度経った頃だった。
 世界をめぐる船旅の最中のこと。お寝坊さんのフローラを置いて義両親の部屋に行こうとしていたデボラは、行きがけにルドマン家に仕えるメイド達の噂話を聞いてしまった。
“養子をとってからのルドマン様、明るくなったわよね”
“奥様もとても幸せそうだわ。一時はお子様の出来ない辛さに塞ぎこんでしまっていたけれど”
“2人とも可愛らしいいい子たちだものね”
 入って行ける雰囲気ではなかったため、角に隠れてこっそり聞いていたデボラは上機嫌だった。あたしたちはきちんとルドマン家の一員になれているんだ、と思えて嬉しくなる。
 しかしそれもつかの間。メイド達の噂話は続く。
“ただ、どうしても差がついちゃうものよね”
“そうねぇ、デボラ様は頭のいい器用な子だけれど。フローラ様はねぇ……”
“悪い子じゃないのよ。でもお姉さんと比べると、ちょっとトロくさく見えちゃうわね”
 クスクス笑うメイド達に聞こえるように、デボラは思い切り壁を殴りつけてやる。大きな音と登場した人物に驚いて固まる彼女達に、“小うるさい虫が飛んでいたの”と笑顔で言い放ち颯爽と歩き去ってみせた。
「末恐ろしい6歳児だなぁ……」
「だって、許せなかったんだもの」
「……そりゃ、大事な妹が貶されたら、普通は怒るだろうけど」
「……違うの。そうじゃないのよ」
 実際デボラは頭がよく、大人がしてほしいことを理解して先回りできる要領のいい子供だった。だがフローラは、素直であるがゆえに馬鹿正直で、優しいがゆえに要領が悪く、おっとりしているが故にトロくさい子供だった。
 フローラはいい子だ。誰が見たって可愛くて、心優しい、いい子なのだ。
 それが、自分と比べられたせいで低く見られている。
 フローラが悪いわけでも、自分が悪いわけでもないのは分かっていた。それでもデボラは妹を貶める自分自身の存在に腹が立っていた。
「……まさか、たったそれだけでフローラさんの引き立て役になろうとしたんじゃないだろうな?」
「そんなわけないでしょ。あたしだってそこまでお人好しじゃないわ」
「妹のために自分を投げ出して泣き喚いた子供がよく言うよ」
「やかましい」
 そっぽを向いたまま思い出すのは、メイド達の前から歩き去ったすぐ後の出来事。義両親、ルドマン夫妻の部屋に遊びに行った時のこと。
 部屋の目の前にたどりついてドアノブに手をかけた瞬間、中からいつになく深刻な夫妻の声が聞こえてきたのだ。
“だから言ったじゃありませんか、あんな信用のおけないような事業に資産提供だなんて。”
“むぅ……そうだな、迂闊だった”
“あなたらしくないですよ、あんな無謀な投資……”
“わかっているよ、少し無茶をしすぎた”
“あの子達に少しでもいい生活をさせてあげたい気持ちはわかりますけど”
“ああ、いかんせんあの子らを養うにはお金がかかりすぎる”
 難しい話は分からないが、とても明るい笑顔で入って行ける雰囲気ではなかったので、デボラはドアノブから手を離す。
 一度フローラの所に戻って、お寝坊さんのあの子を起こしてあげてからまた来ようかしら。
 それとももう起きてるかしらね、と考えながら来た道を引き返そうとした瞬間、部屋の中から聞き捨てならない言葉が聞こえてきた。

“やはり、2人も引き取ったのは失敗だったかもしれないな”

 ピシリ、とひび割れたような音が聞こえた気がした。ルドマンのたった一言に思い切り揺さぶられたデボラの心は、疑問符まみれになる。
 あたし達を養子にしたのは失敗だったの?
 もうここにはいられなくなってしまうの?
 またあたし達姉妹はあの孤児院に逆戻りなの?
 待って、“2人も”引き取ったのは失敗?
 じゃあ“1人だけ”だったら失敗じゃなくなるの?

 “1人”にするならば、一体どちらを切るの?

 メイドの噂話が頭を駆け巡る。
 デボラ様は頭のいい器用な子だけれど、フローラ様は。
 お姉さんと比べると、ちょっとトロくさく見えちゃうわね。

 足音を忍ばせながら早足で自室へ戻る。デボラの体の震えは一向に止まらなかった。
 ダメ、そんなのダメよ。あの子のためにいい子にしていたばっかりにあの子が辛い思いするなんて、そんなのあっちゃいけない。
 自室のベッドにもぐりこんで、毛布を体に巻きつけて、震えが収まるのを待つ。どうにかしなくては。どうにかして、フローラを守らなくては。
“おはよう、おねえちゃん”
 声に驚いて振り返ると、そこには寝ぐせのついた頭のままで眠そうに目をこする、何も知らない妹がいた。
 寝間着姿のままの無邪気な彼女を見て居た堪れなくなって、デボラは無我夢中でフローラを抱きしめる。
“……どうしたの、おねえちゃん?”
“違う、違うの。あたし、そんなつもりじゃ”
“おねえちゃん、くるしいよ”
 どうすればいい。彼らにフローラを優先させるにはどうすればいい。
“大丈夫よ、あたしがあんたを守るから”
 そう言って、泣きそうな顔でひきつり笑いを浮かべて見せる。フローラは、らしくない姉の挙動を見て不思議そうに小首をかしげた。
 今にして思えば、彼女を抱きしめたのは守りたいからじゃなく、縋りたいからだったのかもしれない。

 そしてその日の夕刻。
 ビスタ港での船の乗り換え時に、迷子らしい見知らぬ男の子が一人船室に入ってきた。以前のデボラなら優しく話しかけて船の出口へ連れて行っていただろうが、その時は違った。
 答えを見つけたデボラは、おどおどする少年を見つめる。
 ああ、なんと都合のいいことだろう。
“勝手に入ってこないでくれる!?”
 強い口調で突き放す。
“ここはあたしの部屋なの。わかったら早く出て行って!”
 理不尽に罵られた不運な少年を力いっぱい突き飛ばし、部屋から追い出した。
 フローラは優しい姉の豹変振りを、信じられないような顔で呆然と見つめている。しかしデボラはそれを振り返ることは出来なかった。フローラの顔を見れば、決意が揺らいでしまいそうだったから。
 そう、これでいい。
 こうすれば、こうしていけば、いずれ切られるのはフローラでなくあたし。
 慣れない暴言を使って泣きそうになったデボラは、フローラに涙をためた瞳を見せないように部屋を出て、何も言わずに扉を閉じた。

「ま、あとは想像できるでしょ? “悪い子”街道まっしぐらよ」
 途中から黙って聞いていたリュカに向かって、出来るだけあっさりと言い放つ。
 話し終わってすっきりしたデボラは、感慨深い気持ちで星空を眺める。気付かないうちに、あれからもう十年以上も経ってたのね。我ながらよく保ったものだわ。
 結局切られることなくここまで来てしまったが、デボラは少しも後悔していなかった。こんな自分を引き取ってくれるような心やさしいルドマン夫妻に何かあった時には、迷うことなく自分を切り捨てられるようにしておきたかったから。
「……あんたには、正直感謝してるのよ」
「……え?」
 意外そうな顔でリュカがこちらを向いた。
「いい加減“悪い子”を続けるのも限界で……もう、狂っちゃいそうだったわ」
 たくさん家出をしたのは“悪い子”になるためだけではなかった。その内の何回かは、本気でルドマン邸から逃げ出そうとしたこともあったのだ。ただ、その度ルドマンは自分を見つけてしまう。それが嬉しいやら苦しいやら。
 誰にも優しくできないのは思った以上に辛い。家族だけでなく町の人間にも冷たく接したため友人が出来るはずもなく、言いよってくる男は全てこっぴどく振ったので恋人だって出来るはずもなく(アンディはフローラと仲が良かったため例外だったが)。全て忘れて逃げ出したい衝動に駆られたのは一度や二度ではない。しかし逃げ出そうとすれば、“あんな子を放ってはおけない”という呆れかえるほど優しい理由でとらわれてしまう。
 自分で迷路を作って、勝手に袋小路に迷い込んで、一番優しくしたい人達にギリギリまで追い詰められて、逃げ道はどこにもなかった。
 リュカの提示した、プロポーズとは名ばかりの“交渉”以外は。
「無茶苦茶なプランだったのは否めないけど、少なくともあたしは救われたわ。お礼を言わなきゃね」
「……礼なんかいいから。とりあえず、ほら」
 そう言ってリュカが突然デボラの目元に触れる。じわり、と皮膚が濡れる感覚で、ようやく自分が泣いていることに気がついた。
 気付いてしまったらもう止まらない。わけのわからないくらいに、あとからあとから涙があふれ出てくる。
 馬鹿みたい、自分から突き放すように仕向けたくせに。
「……寂しかったのかしら、あたし」
 全てを振り返って整頓して、ようやく自分の気持ちに気付けた気がした。
 ふいに肩を抱き寄せられたかと思ったら、リュカの腕にマントごと包まれる。デボラは驚いたが、それが嫌なわけではなかった。しかし大人しく抱かれるのも癪なので、抗議だけはしておく。
「……何すんのよ」
「寒いんだろう? こうしていれば暖かい」
「そりゃそうだけど……」
「いいから、大人しく抱かれてなさい」
 幼子を諭すように言われ、子供扱いに腹を立てるふりだけして、デボラは結局彼の好意に甘える。
「……優しすぎるんだろうな、きっと」
「……どこがよ」
 わかんないならいい、と言いながらリュカはデボラを抱きしめる力を少し強くする。胸元に顔を押し付けたら涙が滲んで、リュカの服に吸い込まれていった。
「……ねぇ」
「ん?」
「服、汚れても文句言わないでよ」
「着替えりゃ済むさ」
「……明日洗うから。着替えたら持ってきなさいよ」
 ほらそういう所がだよ、と笑ったきり、リュカは黙って夜の海を見つめる。
 そんな優しい沈黙が、デボラにはとても心地よかった。