まだあの小魚男がフローラの夫になるとは決まっていないのに、ルドマンは結婚式の段取りを決めに外に出ていった。
嬉しそうなのは結構だけど、それって娘が結婚する時の父親の感情としてはどうなのよ。ずいぶんリュカを気に入ったらしい浮かれ気味の両親を尻目に、デボラはフローラに付き添ってリリアンの散歩をしていた。
「……全く気が早いったら」
そうぼやくと隣を歩くフローラが、本当に、とくすくす笑う。この純白の百合が咲き誇るような笑顔がもうすぐ他人の物になるだなんて、意地でも阻止してやりたいところだわ。
しかし、そういいつつデボラは、リュカが水のリングを手に入れてくることを確信していた。
あの吸い込まれそうなほど深い黒の瞳を見ると、何故だか何でもやり遂げてしまいそうな気がするのだ。水のリングなんていとも容易く手に入れるだろうということも、おそらくリュカとは長い付き合いになるのだろうということも、デボラの勘が告げている。こんなときはよく当たる自分の勘が憎たらしい。
「ねぇフローラ、あんたはいいの? 結婚相手があんな小魚男で」
「……小魚男ってリュカさんのことですか?」
「それ以外に誰がいるのよ」
「その例えじゃ誰だかわかりませんってば」
大体小魚って例えは酷くないですか、とフローラはデボラに苦笑いを向ける。あーもう、何でフローラの旦那募集なんてしたのよパパ、いやむしろ何で募集阻止しなかったのよあたし、と頭の中でデボラが悶えていることをフローラは知らない。
「……姉さんは、リュカさんのことどう思いました?」
「どうって……まぁ、今まで見てきた男の中では中の上くらいかしら」
「……リュカさんと結婚したら、お父様は喜ぶと思いますか?」
「そりゃ喜ぶんじゃない? 自分の気に入った男が自分の息子になるんだから」
「……そうですよね」
少し思いつめたような顔で、フローラは前を歩くリリアンを眺める。
百合の花に影が差したように見えて、デボラは思わずフローラの肩に手を掛けてぐい、と自分の方へ向けた。驚いたフローラは、水晶の瞳を大きく見開いている。
「待ちなさいよフローラ」
「え?」
「あんたはあんたのために結婚しなくちゃいけないんだからね。パパのための結婚だなんて、あたしが許さないわよ」
「へ……」
「わかったわね」
「……」
「返事は!?」
「は、はいっ!!」
「ん、よろしい」
「わふっ」
足元に突然もさもさとした感触を感じて目線を落とすと、急に立ち止まった二人を不思議に思ったらしいリリアンが足元にすり寄ってきていた。早く行こうよと言いたげな目でこちらを見つめている。
「……ほら、行くわよ」
久々に本心を話したことが気恥ずかしくて、デボラはフローラからリリアンのリードを奪い取って少し早足で歩きだす。慌ててフローラも後をついていく。
照れっぱなしのデボラがそっぽを向いたまま黙って歩いていると、デボラの腕が急に重たくなる。何かと思えば、フローラがデボラに体を寄せてきていた。
そしてデボラを見上げ、上目遣いで天使の微笑。
「ありがと、姉さん」
……あーもう、やっぱり誰にも渡したくない。
そんなデボラのわがままは、フローラに届くはずもなく。
夜道でじっくり話したあの時から、あの小魚男がフローラとの結婚を望む理由は腑に落ちなかった。だからデボラは、幼なじみだという金髪の女を屋敷に連れてきたことでリュカの行動にさらに疑念を抱いていた。
家名にも財産にも興味がないうえ、明らかに好いてくれている女がいるというのに妹に求婚とはこれいかに。
その晩に妙に陽気なフローラとワインを楽しんでいる最中も、デボラはリュカの不可解な行動が頭に引っかかっていた。あのフローラに一目惚れ説が嘘だってのは一目瞭然だとして、目的が全く分からない。
いつも通りにグラス一杯でつぶれてしまったフローラを彼女の部屋のベッドに寝かしつけてから、もう一本ボトルを開けようとして栓抜きを探していると、ふいに扉がノックされた。
「何よ、誰?」
イライラ気味にデボラは呟く。この嫌なタイミングはきっとパパね、こちとらじっくり考えたいことがあるっていうのに。無視してしまうか返事をするかを迷っていると、短い間隔でまた扉がノックされる。珍しくしつこいわね。
「待っててよ、今開けるわ」
扉の方へ声をかけ、デボラは少し早足でそちらへと向かう。普段とノックの仕方が違う気がしたが、別段気に留めずにドアノブに手を掛けた。
「こんな遅くに、何か……」
あったの、と続けようとしたが、扉の向こう側を見てデボラは言葉を止めた。
「こんばんは」
「……こんばんは、いい月夜ね」
噂をすればなんとやら、目の前に現れたのはリュカだった。よそ行き用なのだろうか、仮面の笑顔をごく自然に顔に貼り付けている。それが仮面だとわかってしまうところがまた憎たらしい。素の姿を見ちゃったからなのかしら、この笑顔が胡散臭く見えるのは。
リュカは穏やかに微笑みながら首を傾げる。
「入れていただいても?」
「……構わないわ。ちょうど聞きたいこともあったし」
「偶然ですね、僕もあなたに聞いてもらいたいことがあったんですよ」
「あら奇遇ねぇ。じっくり聞かせてもらおうじゃないの」
ドアにもたれてリュカを部屋に入れると、後ろからメイドがついて入ってきた。成程、あの笑顔はこの子がいたからだったのね。デボラはドアの傍で待機しようとするメイドに声をかけた。
「付き添いご苦労様、もう部屋に戻ってもいいわよ」
「え、ですがデボラ様……」
「いいのよ、二人で話したいの。夜も更けてきたし、あんたも疲れたでしょう? もうおやすみなさい」
優しい笑顔を作って言ってやると、メイドは珍獣でも見たかのような驚きの顔でデボラを見て、慌てて頭を下げて階段を下りていった。
あのデボラ様が私に労わりを。そんな心の声が読唇術を使わなくてもデボラに伝わってくる。むむ、自分で蒔いた種とはいえ気に食わないわね。自然とデボラの作り笑顔が引きつる。
「……いや助かったよ。部屋までぴったりでさ」
「当たり前でしょ。年頃の男女を部屋に二人きりになんて、普通この屋敷じゃさせないもの」
扉を閉じるとすぐに仮面がはがれて、リュカはげんなりとした顔をデボラに向けた。身替わり早いわね。
「こっちから話すつもりだったけど、あんたも俺に聞きたいことがあるっつってたな。どっちから話そうか?」
「あたしからに決まってんでしょ」
ツカツカとワインの置いてあるテーブルまで歩き、リュカにその椅子に腰掛けるよう促す。ちょうどグラスも二つあることだし、デボラはそこにあけたばかりのワインを注ぎながらストレートに疑問をぶつけた。
「わかんないのよ、あんたの考えが」
「考えというと?」
「フローラに求婚する理由に決まってんでしょ。一体何企んでるわけ?」
「企むなんて人聞き悪いな……」
「企んでるでしょうがよ。フローラのこと純粋に好きなら、当てつけみたいに幼馴染なんかつれてこないもの」
「……それもそうか」
「フローラやパパの目はごまかせても、あたしの目はごまかせないわよ。笑顔でだまくらかそうったってそうはいかないわ」
「……」
「ほら、さっさと目的を白状なさい? しょうもない理由だったら力ずくでもこの町から追い出してやるんだから」
テーブルに手をついて立ち上がり、デボラはリュカに睨みを利かせた。リュカは少し驚いたような顔で黙ってデボラを見上げている。
見た目も中身も認めてあげるけど、あたしがあんたを信用出来ない限りフローラをあんたにやるわけにはいかないのよ。頼むから信じさせてよ、あんたは今まであたしが見てきた男の中で一番マシな男なんだから。
願うような気持ちで静かなリュカを睨んでいると、ふいにリュカの口元が緩んだ。
「……ふふ」
「何が可笑しいのよ!?」
「だって話題がまるまる被ってるから。手間が省けたっつーか何つーか、話が早くて助かる」
まぁ座りなよ、と促されてデボラは腑に落ちないまましぶしぶ座る。するとリュカは晴れやかな笑顔で、
「俺の目的は天空の盾、ただそれだけだよ」
デボラに向かって爆弾を落とした。
「………は?」
「結婚しないと盾がもらえないなら結婚するさ。相手が誰であろうと」
口を開けたまま固まるデボラにリュカは続ける。
「どっちかっつーとメインは盾で、嫁さんはおまけみたいなもんでね。結婚せずに盾がもらえるならそれが一番だったがそうもいかないようだし、面倒だけどやむなくリング探しに明け暮れてたってわけ」
「じ、じゃあフローラを気に入って求婚ってわけじゃ……」
「無いね」
「…………」
今度はデボラが黙る番だった。第一印象はもう完全に覆された。何だこの腹の中どころか血液まで真っ黒そうな詐欺師は。
「それに、少し気になってさっきルドマンさんに聞いてみたんだよ。この結婚話はフローラさんに相談したうえで決めたのかってな」
「……パパは何て?」
「それが独断だって言うんだよ。自分の選んだ男を婿にするのが一番だって考えてるらしい。それでフローラさんの部屋にも行ってみたんだ」
「フローラにも聞いたの?」
「いや、寝てたから話はしてないけどな。でも寝言で言ってたよ。アンディ、アンディって」
「…………」
再びデボラは驚いて沈黙する。思いもよらなかった。アンディの一方通行と決めつけていたが、まさか両想いだったなんて。てゆーかフローラ、あの豆もやしのどこがいいのよ、お姉ちゃんちょっとあんたの好みを疑っちゃうわよ。
「気付いてやれよ、姉なんだから。ルドマンさんを止められるのなんて、あんたしかいなかったんじゃないのか?」
確かにそうだけど、と納得しかけてデボラは心の中で突っ込む。それは一体どういう意味よ。
「じゃあ、フローラがあの金髪女を引きとめたのは……」
「どうにかして自分が結婚しない理由を作りたかったんだろ。どうも彼女、ビアンカに遠慮してる様子じゃなかったからな」
「……さっき浮かれてたのはそういうわけね……」
婿候補をぽっと出の知らない女に取られそうだってのに呑気ねぇ、とワインを飲みながらフローラに言った言葉が的外れだったことにデボラは気付く。あのワインはやけ酒じゃなくて祝い酒だったってことね。
「じゃあ何、アンタあのビアンカとかいう女を選ぶわけ?」
「それもやめとくつもりだよ。ビアンカだって病気の父親置いて旅するわけにもいかないだろうし」
「だったら何で連れてきたのよ」
「婚前に女連れで旅とはどういうことか、って怒らせれば盾だけもらって逃げられるかと思って」
クズの発想じゃないの、と喉元まで出かかったが、直後リュカの表情が少しだけ曇ったのでデボラはその言葉を飲み込む。
「……それに、一緒にいると昔を思い出して辛いんだよね」
「……昔って何よ」
「あー、いやこっちの話」
そう言ってリュカはへらりと笑う。これは仮面の方の笑顔かしら。
リュカの言いたいことが全く読めず、焦るデボラはのどの渇きをワインで潤す。
「……だったらあんた、どうやって盾を手に入れるつもりなのよ?」
「うん、そこで本題なんだけどな」
組んだ腕を解いてリュカがテーブルから身を乗り出す。仮面を剥いだブラックスマイルのままでデボラに向けられた言葉は、
「俺は盾が欲しい、でも二人とは結婚できない。だから」
本日二度目の爆弾だった。
「俺と一緒に来ないか?」
「……は……!?」
今度こそデボラは絶句した。
「いつだったか夜道を送ってった時に言ってただろ? 旅がしたいって」
「それはっ……確かにそう言ったけど、それとこれとは」
動揺するデボラを遮り、リュカはグラスを持って立ち上がる。
「あんたは望み通り世界を旅出来て、俺も望み通り天空の盾が手に入る。お互い損しないと思うんだけどな?」
「無茶苦茶言うわね……」
「無茶苦茶? そんなつもりはないよ、俺はあんたにチャンスを与えてるんだ」
言いながらリュカは窓にもたれてデボラを振り返る。月光が差し込んでリュカの顔に影を落とし、その表情を消す。
「……チャンスって、何のことよ?」
「この町から抜け出すチャンス、っていえばわかるか?」
逆光でリュカの顔など見えないはずなのに、デボラはリュカの黒曜石の瞳に捕らえられたような感覚に陥る。モンスターたちがこの小魚男にハマるのはこれのせいなのかしら。
「どうもあんた俺と同じにおいがするんだよ。どこか自分を演じてるというか、そんな感じのにおいが」
その言葉に表情がピシリと固まったデボラを見て、ああやっぱりか、とリュカが呟く。
演じてる、だなんて。そんな馬鹿な。
「俺には、あんたがわざと悪役に徹しているように見えたんだ」
パパにもママにも、フローラにだってバレてなんかいないと思ってたのに。
「理由は全くわからんけどな。辛くないか、そういうの?」
それをどうしてあんたが見抜くのよ。たった一日、ほんの少しだけ一緒にいただけのあんたが。
「町の外にさえ出ちまえば、あんたのこと知ってる人間なんかほとんどいなくなるんだ。仮面被ってる必要もない」
……わかってるわ、そんなのずっと前から。
「俺の計画の手助けのついでにあんたも助けてやれる。さっきも言ったが、メリットはお互いにあるんだ。どうだろ?」
リュカのまっすぐな瞳に絡めとられたまま、デボラはリュカを見つめ続けている。目を逸らせないのは一体どうしてかしら。
黙ったままのデボラを見てか、リュカは不意に顔を崩してへらりと笑った。
「そりゃ、ここから出ていくとなると、フローラさんから離れなきゃいけないっていうデメリットもあるけどな」
「……そこは心配ないわ。いつかそうするつもりだったもの」
デボラは無理やり視線をはがし再びワインに口をつけ、唇を湿す。このままあの男の目を見続けてたら、本格的につかまっちゃいそうで怖いもの。
考える時間を作るためにデボラはワインをもう一杯グラスに注いだ。計画だの何だの言ってるけど、ようするにこれって「結婚して下さい」ってことなのよね。
「……いつかはあたしも結婚することになるだろうと思ってたけど」
「ん?」
「こんな色気もへったくれもないプロポーズを受けるなんて思ってもみなかったわ」
「はは、確かにな。これはプロポーズというより交渉だ」
「…………」
本当に色気のない。
「じっくり考えさせてあげたいとこなんだが、あいにく時間がないんだ。返事は早めに頼む」
「……パパに伝えるのは明日だったわね」
人生最大の決断を迫られているリュカに、ルドマンは一晩しか考える猶予を与えなかった。はた迷惑な気の早さのしわ寄せが、まさかこんなところで自分に巡ってくるなんて。デボラは内心毒づくが、せめてあと一日欲しいと願ったところでもう遅い。
リュカとは長い付き合いになる予感がしていたが、まさかこんな形で勘が当たるとはデボラも思っていなかった。口の中がすぐに渇いてワイングラスが空になる。全く関係ないと決め込んでいた自分に矛先が向いたので、少し混乱しているのかもしれない。
しかしデボラの心にあるのは戸惑いだけで、不思議と迷いはなかった。踏み出す方向はわかっているのに、最初の一歩を躊躇っているような、そんな感覚がデボラのなかで渦巻いている。
―――コン、コン。
ノックの音が響いて、デボラとリュカは振り向いた。ドア越しに先程帰したメイドの声がする。
「デボラ様、そろそろお休みの時間です」
苛立っているように聞こえるのは暗に「いつまでいる気だ、さっさと帰れ」とリュカに言っているからだろう。リュカがちら、とデボラに目をやる。
「……そろそろ時間か」
諦めたようにワイングラスを置いて、リュカが立ち上がる。
「いくらなんでも無理やりすぎたな。さっきまでのやり取りは忘れてくれるとありがたい」
それじゃ、と困ったように微笑んで、リュカは歩き出す。
駄目よ、そんなの駄目。今この機会を逃すわけにはいかないわ。デボラの勘が警鐘を鳴らす。
「ま、待ちなさいよ!」
気付いたら口から言葉がついて出ていた。ノブに手をかけたリュカが立ち止まる。
いつかはここを離れて暮らすつもりでいた。これは自分のためでもなんでもなく、何よりも大事なフローラのために。その「いつか」は、もしかしたら今なのかもしれない。
「……乗ったわ」
連れ出してくれるなら好都合。
あんたがあたしを利用しようってんなら、あたしだってあんたを利用してあげるわよ。
「その話、乗ってあげる」
言った後に少しデボラが後悔したのは、振り返ったリュカの顔に意地の悪い笑顔が浮かんでいたせいだ。
「そうこなくちゃ」
そんな風にニヤリと笑う。この腹黒小魚。